紙作りによって、いろいろなことが見えてくる
山路紙 奥野 誠氏 奥野 佳世氏
目の前に置かれたのは、古い紙の塊だった。ゴワゴワと固く、丈夫な袋のようだ。
「昭和の始めの頃、今から90年くらい前の山路紙です。当時はビニール袋なんかありませんから、シイタケやお茶などを入れる袋として使っていたようです。それほど山路紙は身近なものだった。このように暮らしに根づいた素朴な紙は、戦前は日本中のあちこちにあったと考えられています」と奥野 誠氏(以下、誠氏)。
誠氏と奥様の佳世氏が行う紙漉きワークショップでは、最初に、トイレットペーパーもこれから漉く紙も、同じ紙なのだということを話す。つまり、紙はもっと身近なもの、暮らしとともにあるもの、現在の和紙に対する過剰な扱いにはいささか疑問を感じていると言う。また同時に、紙が無ければ文明は今ほど発達していない、2000年前では先端技術だったとも語る。
龍神村への移住を契機に
ご夫妻は、元々大阪在住の画家であり造形作家。35年前に芸術による村おこしを目指して開村した龍神国際芸術村に興味を感じていたところ、佳世氏の個展に来られた初代芸術村村長に誘われ、芸術村への移住の話が現実となった。
「私も妻も、専門学校や高校で美術を教えていたのですが、もっと創作に専念したいと勤めを辞める予定だった。そこに芸術村に来ないかと誘われたので、すぐに決断しました」
まだUターンやIターン、村おこしもなじみの言葉ではなかったが、佳世氏も芸術村で創作活動をしながら子育てをするといったイメージはあったそうだ。そして廃校を利用した芸術村の一画で暮らし始めた。二人とも30代になったばかりだった。
偶然だった山路紙との出会い
「芸術による村おこしというテーマの中で、何ができるか考えました。そこで村の歴史を調べてみると紙漉きをしていたことが分かった」
二人は山村に眠っている文化の掘り起こしも村おこしのテーマの一つと考え、佳世氏は聞き取りを行った。
「私は前から紙漉きに興味を持っていました。ところが、どこにも紙漉きの道具は残っていない。村の人たちはそんな古いものをどうするのかと怪訝そうにしていました」
誠氏が調べると日高川の上流が楮の産地であり、今でも栽培していることが分かった。道具が無ければ自分で作ればいい。林業の村なので材料も道具もある。奈良の吉野紙や有田川の保田紙など、各地の産地で道具を見て自作した。原料と道具が揃い、あとは漉き方だ。大体のことは分かっていたが、楮の処理など細かなことが分からない。村が開いた木工教室で、紙漉きをやっていた人と出会えたのは、まったくの偶然だった。
こうして二人の尽力で蘇った山路紙。子どもたちを対象とした絵画教室で紙を漉いたり、小学校や中学校の卒業証書を子どもたちが漉くワークショップを開催した。もちろん、自分たちの創作活動も精力的に進め、佳世氏は草木染によって自然で鮮やかな色の紙を作り上げていく。
「楮の収穫から始まって、樹皮の表皮を取り除く、釜で炊く、水にさらす、柔らかくなった繊維をたたいて細かくして漉く。作業全体が一つの作品を作る行為、表現として重なっていたのです。おもしろくて、夢中になっていて、その後にものができている。無意識というか、魂がなせる業というか…」
誠氏は紙作りと表現活動がそれぞれ一体となったものが、30年間の自分たち二人の仕事だったと語る。誠氏は、まさに「紙作りに引き込まれた人種」だった。
紙作りはいろいろなことに気付かせる
「紙漉きをやっていると、いろいろなことが見えてくる」と誠氏。資源を巡る環境問題や、自然を破壊することで成り立つ世界経済、そして大陸から伝わった文化の流れなど。普段は気にならないことも気付かせてくれる紙は、最良の教材といえるかもしれない。
佳世氏も「次の世代に伝えたい、伝えなければならないことがある」と語る。おそらく山路紙や紙漉きのことだけではない。これからの循環型社会や山村の自然・文化、自分自身の価値判断の大切さなども伝えたいと考えている。
地域としっかり結び付き、しかも国内外の展示会への出展など精力的に創作活動を行う奥野夫妻。当初の龍神国際芸術村は火災などもあり現在は存在しないが、山路紙紙漉き工房の他に、木工工場とギャラリーのあるG・ワークス、9軒のアトリエ付き住宅など、その発展形が存在している。ご夫妻の活動は芸術による村おこしを実現し、さらに未来に受け継がれているようだ。
奥野 誠 奥野 佳世
ご夫妻ともに武蔵野美術大学造形学部油絵専攻卒業。誠氏は作家活動のかたわら美術学校講師を、佳世氏は画家と高校の美術教員を経て、龍神村へ移住。山路紙を復活させ、誠氏は2016年度の和歌山県名匠に選ばれた。2018年には上海のギャラリーでも展示会を行い、海外でも注目されている。
山路紙 紙漉き工房
- 〒645-0414
- 和歌山県田辺市龍神村安井269-1