伝統の技と精神を新感覚の紙布に託して

西ノ内紙 紙のさと 菊池正氣(せいき)氏

 西ノ内紙は、茨城県常陸大宮市の旧山方町一帯で生産されてきた。原料は繊維が細かい「那須楮(なすこうぞ)」。水に濡れても文字が滲まず、江戸の商家が大福帳に使い、火事のときには井戸に投げ入れて焼失をまぬがれたという逸話も残る。
 ところが、菊池正氣氏が作る「西ノ内紙布」は、そんな強靱なイメージとは趣がちがう。風合が軽やかで、清々しいのだ。糸にする和紙は、従来のものより薄くてやわらかく、空色や薄紅色の美しい色は天然染料に頼る。そして、この糸を緯糸に使い、経糸には木綿を使う。
 「これは、もともと白石紙布のやり方。後を継ぐ人がいないから、この紙を作ってくれといわれたのが始まりなの」
 菊池氏は、意外なきっかけを語りはじめた。

焼失をまぬがれた大福帳焼失をまぬがれた大福帳

20年の歳月をかけて完成した西ノ内紙布

 菊池氏が18歳で紙を漉きはじめたとき、西ノ内紙は斜陽の荒波にもまれていた。活路を見つけようと、20歳の頃、祖父が残した色紙見本帖を参考に、色紙を作ってみた。だが、売れなかった。やっとチャンスが巡ってきたのは10年後。水戸市内の銀行の厚意で、ロビー展を開催できたのだ。
 「あれが大当たりして転機になった」
 まもなく世の中はバブル景気を迎え、西ノ内紙と和紙雑貨は飛ぶように売れた。一方で、作品は海外でも紹介され、活動の場も広がっていた。そんな時、菊地氏に声がかかった。水戸で織りをしていて、宮城県の「白石紙布」を知った桜井貞子氏だった。
 「白石和紙の糸は細くて丈夫だった。その紙を作ってくれといわれたんで、今どきそんな紙は儲かりゃしないからやらないと断ったんだけど……」
 全盛期に、他県の伝統技術を継承してほしいと頼まれたのだから、菊池氏が二の足を踏んだのも当然だ。
 「でも、なんだか気になって、結局、引き受けたんだよね」
ところが、しょっぱなから途方に暮れてしまう。
 「昔の人が、どうやって白石のやわらかい紙を作ったのか、いくら考えても分からない。そうしているうちに気づいたの。自分はきれいな紙を作るためだけに熱中して、機械を使い、薬品を使い、繊維を粗末に扱っていた。昔の人はきれいな紙より、丈夫な紙を重点的に作っていた。じゃあ、昔と同じ方法でやりましょうとなった」
 菊池氏は桜井氏とともに、20年もの歳月をかけて「西ノ内紙布」を完成させた。タペストリーやクッションカバーなどのインテリア雑貨、甚平のような普段着に商品化された紙布は、徐々に愛用者が増えている。

西ノ内紙を縒って作られた糸
西ノ内紙布の甚平西ノ内紙布の甚平

先人の技術で和紙文化を暮らしの中へ

 「今、西ノ内紙布は、糸も布も私が作っています」と、菊池氏はサラリといってのける。けれども、紙布に仕上げるまでの手間は並大抵ではない。1枚の和紙を端だけ残して2〜3ミリ幅に切り、板の上で紐状にのばしてから糸車で細く縒る。そしてようやく手機で織る。そもそも糸の材料となる紙漉きから手作業だ。体力と根気がなければできない。とはいえ、最近は少し楽になった。脱サラした息子の大輔氏が、紙を漉いてくれるからだ。1枚の重さが3匁(約11グラム)の和紙を、均一な重さと厚さに仕上げる技も伝えた。

その大輔氏は、忙しい作業の合間にこう語った。
 「伝統的な紙文化がいらないということになってしまうと、自分の代では、何か新しい需要を産み出さなければいけない。でも、紙布のような新たなものを創りながら、日本の紙はこういう文化であったということは残していきたい。それも自分の仕事だと思っています」


菊池正氣

菊池正氣

1945年、茨城県生まれ。1963年、茨城県立水戸工業高等学校卒業後、家業を継ぐ。1976年、「紙のさと和紙資料館」を開館。80年代には海外のグループ展に出展するほか、米国11大学で和紙を紹介。2007年、西ノ内紙が茨城県無形文化財に指定。2016年、旭日双光章受章。2018年、東京・銀座で、紙造形作家の小山欽也氏との二人展を開く。


紙のさと

  • 〒319-3107
  • 茨城県常陸大宮市舟生90
  • 営業時間
    9:00〜17:30(資料館17:00、紙漉き体験15:00まで)
  • 定休日
    水曜日(祝祭日は翌日)、年末年始(12月30日〜1月1日)
  • TEL
    0295-57-2252
  • FAX
    0295-57-6885
  • http://www.kaminosato.com

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